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2010年02月14日

◆小説「新・人間革命」[学光11]

◆小説「新・人間革命」
2月9日
[学光11]
 山本伸一は、通信教育部の開設の準備に当たる大学の教職員たちから報告を聞き、意見交換を重ねてきた。
 伸一が、テーマとしていたことの一つは、通信教育は卒業生が少ないという問題を、どうやって乗り越えるかであった。彼は、大学側にも、「入学してくる通教生が、少しでも多く、卒業できるよう、最大の尽力をしていただきたい」と要望していた。
 教職員たちも、この問題に懸命に取り組んできた。他大学で通信教育部長をしている人からも話を聞いた。
 その人は、「通教生を孤立させないことですよ」とアドバイスしてくれた。つまり、居住地域での学生同士の横のつながり、先輩と後輩の縦のつながり、大学の教職員とのつながりなど、励ましの連帯を築き上げていくことが、継続の力となるというのである。
 詩聖タゴールは、「人間は孤立すると、自己を見失う。すなわち人間は、広い人間関係のなかに、自らのより大きく、より真実な自己を見出すのである」(注)と述べている。
 人間が情熱を燃やし、信念を貫き通していくには、「人」の存在が不可欠なのだ。そのために、善き人間関係を築く組織が、どうしても必要になってくるのである。 教職員たちは考え抜いた。
 ――学生同士のつながりは、将来的にはできていくであろう。しかし、まず、出発段階にできることとして、通教生の相談にのり、アドバイスする「指導員」を、各都道府県に置いたらどうだろうか。「指導員」には、大学を卒業し、創価大学の通信教育に理解があり、勉強面でも、精神面でも支援できる方を人選し、就いてもらおう。
 教職員たちから、その考えを聞いた伸一も、大賛成であった。
 「いいアイデアです。私も人選などについては、全面的に協力させてもらいます。みんなが必死になって考え、知恵を絞っていってこそ、最高のものができる。通教生のために、未来のために、うんと一緒に悩もうよ」

【聖教新聞】転載
  


2010年02月14日

◆小説「新・人間革命」[学光10]

◆小説「新・人間革命」
2月6日
[学光10]
 一九七一年(昭和四十六年)に創価大学が開学した時から、事務局長は、日々の業務の傍ら、通信教育部開設の準備を進めてきた。
 そして、創大の第一期生を社会に送り出す七五年(同五十年)を迎えると、担当の職員も数人に増員し、いよいよ通信教育部の開設に向けて、本格的な準備を始めた。
 他大学の通信教育の教科書や資料集めに始まり、学部などの構成やカリキュラム(教育課程)づくりなど、課題は膨大であった。
 すべてが新しい試みである。すべてが暗中模索であった。
 しかし、事務局長をはじめ、担当した職員たちは、黙々と準備に当たった。
 “この通信教育にこそ、民衆に開かれた創価大学の真骨頂がある”と思うと、闘志がわき、苦労も吹き飛んだ。
 「喜べ! 喜べ! 人生の事業、人生の使命は喜びだ」(注)とは、ロシアの文豪トルストイの箴言である。それは、準備に取り組む職員たちの、実感であったにちがいない。
 協議を重ね、経済学部と法学部を設置するなど、全体の構想がまとまり、文部省に開設を申請。認可されたのは、翌七六年(同五十一年)の二月十日であった。
 創価大学の通信教育は、「学校教育法」に基づいて行われる正規の大学教育である。
 高等学校卒業または同等の資格を有する人が入学でき、正科課程(経済学部、法学部)を卒業すれば、「学士号」を取得できる。
 一方、学歴にかかわらず、教養として大学課程の勉強をしたいという人などが学ぶ、特修課程(現・科目等履修)も設置されていた。この特修課程からも、正科課程へ進む道が開かれていた。
 開設の準備が整うと、職員らは、全国各地で通信教育の説明会を行い、その意義や教育内容、特色などを熱く訴えた。
 そして、七六年二月から、いよいよ通信教育部の入学願書の受け付けが始まった。願書は全国各地から寄せられ、昭和五十一年度一期生は二千人を超えたのである。

【聖教新聞】転載
  


2010年02月14日

◆小説「新・人間革命」[学光9]

◆小説「新・人間革命」
2月5日
[学光9]
 通信教育は、戦後、社会教育法による、洋裁や書道、速記など、趣味や教養、職業技術などを学習する社会通信教育と、学校教育法に基づく大学や高校が行う学校通信教育に整理されていく。
 創価大学が通信教育を始めた一九七六年(昭和五十一年)に通信教育を行っていた大学は、法政大学や慶応義塾大学など、私立の十一大学であった。創価大学は、日本で十二番目に通信教育部を設置した大学となった。
 山本伸一は、創価大学の設立を構想した時から、通信教育部の開設を考えていた。民衆に、万人に開かれた大学の建設というのが、伸一の構想であったのである。
 六九年(同四十四年)四月二日、創価大学の起工式が行われるが、それから一カ月後の五月三日に開催された本部総会で、伸一は、できるだけ早く通信教育部を開設したいとの意向を示し、次のように語っている。
 「通信教育ならば、年齢、職業、居住地等に関係なく、あらゆる人が勉学にいそしむことができることになります」
 また、よく伸一は、学会の高等部員たちと会うと、こう言って励ましてきた。
 「高等部員はできるだけ大学に進学するべきです。家庭の経済が許さない時は、自分で働いて夜学へ行けばよい。あるいは通信教育でもいい」
 大事なのは、学歴ではない。学び抜く心である。学ばずは卑しである。
 伸一は、どんな環境にあっても、勉強し続ける志をもってほしかったのだ。そのためにも、そうした人たちが学ぶことのできる、通信教育部の設置を念願としていたのである。
 しかし、大学の開学と同時に通信教育部を設置するという構想は、実現しなかった。そういう前例がないことから、文部省(当時)の認可を受けられなかったのである。
 文部省の担当官は、卒業生を出したあとなら、申請を受け付けるとのことであった。
 伸一は、一日千秋の思いで、通信教育部の開設の日を待ち続けてきたのだ。


【聖教新聞】転載
  


2010年02月13日

◆小説「新・人間革命」[学光8]

◆小説「新・人間革命」
2月4日
[学光8]
 戸田城聖は、『小学生日本』の「誌上考査問題」で、成績優秀者を誌上で発表し、メダルや記念品を贈った。そこには、次代を担う「宝」である子らの学習意欲を、少しでも高めたいとの、強い思いがあった。
 当初、考査問題に挑戦した児童は、五年生向けが約二千人、六年生向けが約三千人であった。
 発刊翌年の一九四一年(昭和十六年)春、国民学校令によって小学校が国民学校に変わったことから、『小学生日本』も『小国民日本』へと改題する。この年の十月号によれば、考査問題への応募者は、五、六年生合わせて、一万二千人を超えている。
 その後、戸田は、軍部政府の弾圧によって逮捕される。四五年(同二十年)七月三日に出獄し、事業の再建に取りかかった彼が、真っ先に着手したのが、戦争で学びたくても学べなかった青少年のための、通信教育事業であった。
 中学生(旧制)を対象にした半年間のコースで、月に二回、数学、物象(物理、化学、鉱物学などを包括した教科)の教材を送り、月に一度、試験問題の添削を行った。後に英語も加えられ、高等学校・専門学校(旧制)受験のための添削も始めている。
 申し込みと同時に、前金を納めるというシステムで、一日に八百通以上の申し込みが届いた日もあった。しかし、戦後混乱期のインフレの影響を受け、紙代や印刷費が高騰し続け、通信教育事業から撤退せざるをえなくなったのである。
 “万人に教育の機会を与えたい。民衆が賢明にならずしては、本当の民主主義はない。それには教育しかない!”
 それが、戸田の信念であった。それだけに通信教育事業からの撤退は、さぞかし残念であったにちがいない。戸田は、山本伸一への個人教授の折にも、よくこう語っていた。
 「日本中、世界中の人たちが、学べるような教育の場をつくらなければならんな」
 その言葉を伸一は、遺言の思いで聞いた。

【聖教新聞】転載
  


2010年02月03日

◆小説「新・人間革命」[学光7]

◆小説「新・人間革命」
2月3日
[学光7]
 大日本高等女学会で牧口常三郎は、“好学の心”をもちながらも、経済的な事情などで進学できない女子に、勉学の場を提供するため、あらゆる努力、工夫を重ねた。
 出征軍人の家族には、入学金を免除し、月謝を半額にした。また、特待の枠を設け、小学校長の推薦する模範の生徒には、入学金も月謝も無料としている。
  牧口は、通信教育を始めて、半年ほどたったころから、神田・三崎町にあった大日本高等女学会の建物で、月に一度、女子技芸実習講話会を企画している。直接、授業を受ける機会を設けたのである。
 また、彼は、東京各区で、大日本高等女学会の懇話会を行っているほか、全国各地で、懇話会を開催するよう呼びかけている。
 地域で、互いに励まし合いながら、勉強を続けるネットワークづくりを、期待していたのであろうか。
 大日本高等女学会の通信教育は、最盛期、全国に二万人余の受講生を数えるに至っている。しかし、貧しい人びとに教育の場を提供したいという彼の教育方針を貫くには、篤志家などの支援を必要とした。結局、財政が思うに任せず、やがて、経営は行き詰まり、牧口は、やむなく手を引くことになる――。
 いわば、創価大学の通信教育部開設は、人びとの幸福のための教育を実現しようとした牧口の、悲願の結実であったともいえよう。
 その先師の苦闘を知っていた山本伸一は、“孫弟子の自分が、牧口先生の念願を果たそう”と心に決めていたのだ。永遠なる師弟の道が、大事業を成就させるのだ。
 また、牧口の弟子・戸田城聖もまた、通信教育には、ことのほか力を注いできた。
 戸田は、一九四〇年(昭和十五年)一月に、月刊学習雑誌『小学生日本』の五年生向けを、四月に、六年生向けを創刊する。そのなかに、切り取って送ることのできる「誌上考査問題」を掲載している。
 届いた答案は、採点し、間違いを正し、考え方を指導し、批評して送り返すのである。

【聖教新聞】転載
  


2010年02月03日

◆小説「新・人間革命」[学光6]

◆小説「新・人間革命」
2月2日
[学光6]
 世界で最初の通信教育は、一八四〇年にイギリスのアイザック・ピットマンが行った、速記の講座といわれている。この年にスタートした郵便制度を利用したものであった。
 語学教育の通信教育が始まったのは、一八五六年であった。ドイツの言語学者グスタフ・ランゲンシャイトが、自分で学習できるようにした、語学の通信教育教材を出版し、大きな反響を呼んだのである。
 日本における通信教育は、遠隔地などにいて通学できない人を、「校外生」として受け入れ、講義録を送ったことが、その始まりとされている。一八八五年(明治十八年)には、中央大学の前身である英吉利法律学校が、翌年には早稲田大学の前身である東京専門学校が、講義録を頒布している。
 しかし、多くの人びとに学問を広めるという理念に基づいてはいたが、添削指導や試験は行われなかった。
 そのころ、諸学科の添削指導や試験も行う通信講学会が誕生する。この会では、家政学など、女性を対象とした通信教育も実施するようになる。
 牧口常三郎も、一九〇五年(同三十八年)から三年ほど、通信教育に携わってきた。
 当時、高等女学校で学びたいという女子を、受け入れる学校が不足していた。そこで、牧口は、大日本高等女学会を創立し、高等女学校の教育を授ける通信教育に取り組んだのである。それは『人生地理学』を発刊した一年半後、三十三歳の時であった。
 女子に学問は不要であるというのが、当時の風潮であった。そのなかで牧口は、“好学の心”を抑えつけてきた時代は過ぎ去ったと断言し、こう訴えている。
 「女子教育の勃興は全く時勢の進歩に伴ふ当然のことにして固より慶すべく、国民の半数を占めて男子と共に国家を形造る女子の教育思想の斯の如くなることは寧ろ其遅かりしを憾むべきなり」(注)
 女性を、民衆を、賢明にすることが、社会の繁栄を築く、根本の改革となるのだ。

【聖教新聞】転載
  


2010年02月03日

◆小説「新・人間革命」[学光5]

◆小説「新・人間革命」
2月1日
[学光5]
 山本伸一は、通信教育が、いかに困難な道のりであるかを、よく知っていた。したがって、その初心を貫くためのアドバイスも忘れなかった。
 「皆さんの大きな励ましとなり、力となるのが、同じ志をいだく友人との交流であります。相互に連携をはかり、切磋琢磨していっていただきたい。
 大学で学ぶ意味の一つは、人生の友を得ることであります。互いに啓発し合える友の存在は、何にも増して貴い財産であります」
 敢然と一人立って、苦難の壁に立ち向かう覚悟なくしては、何事も成就はできない。そして、その決意を、さらに堅固なものにしていくのが、友の存在である。
 アメリカの大思想家エマソンは言う。
 「友人と共にあるとき、私たちは容易に偉大な人間になれる」(注)
 最後に伸一は、未来を託す思いで、力を込めて語った。
 「第一期生の皆さんこそ、通信教育部の創立者であります。それを忘れないでいただきたい。開拓の道は険しくも、その向学の軌跡は、創価大学の名とともに、永遠に顕彰されていくことでありましょう。
 皆さん方のご健康とご健闘を祈るとともに、建設の学徒の未来に栄光あれ、と申し上げ、私のあいさつとさせていただきます」
 開学式に集った通教生から、一斉に、決意のこもった大拍手がわき起こった。
 四百字詰め原稿用紙にして、八枚ほどの長文のメッセージである。伸一は、この原稿には、何度も、何度も、手を入れた。
 彼は、開学式に出席し、一人ひとりの学生を抱きかかえるように祝福し、励まそうと思っていた。しかし、それが、困難となったために、せめて、永遠の原点となる指針を贈りたかったのである。
 参加者は、伸一の深い真心と、余りにも大きな期待を感じながら、身震いする思いでメッセージのテープを聴いた。この時、通教生の心田に、誓いの種子が植えられたのだ。


【聖教新聞】転載
  


2010年02月03日

◆小説「新・人間革命」[学光4]

◆小説「新・人間革命」
1月30日
[学光4]
 山本伸一のメッセージは続いた。
 「人間の完成よりも知識が、知識よりも学歴、資格が優先され、教育目的の逆転現象を呈している今日の大学にあって、人間の道を究めんとする皆さんの存在は、教育のあるべき姿を世に問うものと確信してやみません」
 伸一の通教生に対する期待は、限りなく大きかった。彼は、そこに、真実の人間教育の道を見ていたのである。
 さらに、通信教育で学業を全うすることの困難さを語った。この当時、入学者に対する卒業生の割合は、一割にも及ばなかった。しかも、卒業までには、五、六年を費やすのが普通であった。
 だからこそ、伸一は、祈るような思いで訴えていった。
 「学識を深める道は、日々の粘り強い研鑽の積み重ねのなかにのみあることを銘記していただきたいのであります。仕事や家庭の事情等、さまざまな問題に直面するでありましょうが、五年かかろうが、十年かかろうが、断じて初志を貫き、全員が卒業の栄冠を勝ち得ていただきたいのであります」
 卒業は、一つの結果にすぎないかもしれない。しかし、その目標の踏破のなかに、人間完成への確かなる歩みがある。一歩一歩の前進なくして、栄光への走破はない。
 そして彼は、通教生は、一人も漏れなく、人生の勝者になってほしいと、強く、強く、念じながら、こう呼びかけたのである。
 「まずもって向学の走者は、自己を制覇し、試練の障壁に信念のバネで挑み、生涯の自己錬磨の飛躍台にされんことを念願するものであります。
 人間の真価は、ひとたび険難の峰にさしかかった時に、初めて明らかになるといわれております。前途に立ちはだかる困難をもって、挫折を自己正当化する手だてとするか、成長への好機と意義づけて進んでいくかで、将来の行路を決定づけてしまうといっても過言ではない。その選択は、ほかならぬ自己自身の腕にあるのであります」

【聖教新聞】転載
  


2010年02月03日

◆小説「新・人間革命」[学光3]

◆小説「新・人間革命」
1月29日
[学光3]
 教育の本義は、人間自身をつくることにある。教育は、知識を糧に、無限の創造性、主体性を発揮しうる人間を育む作業である。
 知識の吸収は、進展しゆく社会をリードするうえで、必要不可欠な条件ではあるが、知識それ自体は、創造性とイコールではない。内なる可能性の発露こそが教育であり、知識は、それを引き出す起爆剤といってよい。
 では、知識を創造へ、生き生きと転ずる力とは、いったい何か――。
 山本伸一は、メッセージのなかで論じていった。
 「それは、社会を担う人間としての自覚と責任であると申し上げたい。人びとの現実生活を凝視し、その向上、発展のために、習得した豊饒な知識を駆使するなかに、創造性の開花があるといえると思うのであります」
 そして、勤労しつつ勉学に励むことは、自分自身を鍛え、視野を広げていく行為であると強調。牧口常三郎が「半日学校制度」を提唱したのも、働きながら学ぶことが、人間教育を志向するうえで、最も適切な環境条件であるからだと訴えた。
 ここで、伸一の声に一段と力がこもった。
 「その意味で皆さん方は“創価教育体現の第一期生”であると申し上げておきたい!」
 集った通教生たちの瞳が輝いた。決意を新たにし、ぎゅっと、唇をかみしめる青年もいた。身を乗り出して拍手をする婦人もいた。
 続いて、伸一は、自らの青年時代の思い出に触れた。窮地に陥った戸田城聖の事業を支えるため、学問の道を、いったん断念せざるを得なかったこと。その代わり、戸田がさまざまな学問を教えてくれたこと……。
 伸一は、深い感慨を込めて、その“戸田大学”での講義の実感を語った。
 「それは文字通り、人生の師と弟子との間に“信”を“通”わせた教育でありました」
 伸一は、創価大学の通信教育の「通信」という意味も、郵便による伝達ということではなく、師と弟子が、互いに“信”を“通”わせ合う教育であるととらえていたのである。


【聖教新聞】転載
  


2010年02月03日

◆小説「新・人間革命」[学光2]

◆小説「新・人間革命」
1月28日
[学光2]
 録音テープに吹き込まれた、山本伸一の力強い声が、創価大学の中央体育館に響いていった。
 「五月十六日は、重大な歴史の日となりました。晴れやかな開学式、まことにおめでとうございます。また、皆さんのご入学を心よりお祝い申し上げます」
 「重大な歴史の日」――皆、その言葉に、思わず息をのんだ。通教生たちは、伸一の言わんとすることの、深い意味を理解したわけではなかった。しかし、誰もが、通信教育部に対する、伸一の、強く、熱い思いを感じながら、メッセージに耳をそばだてた。
 「通信教育部の設置は、創価大学設立の構想を練り始めて以来の、私の念願でありました。
 教育の門戸は、年齢、職業、居住地のいかんを問わず、すべての人びとに平等に開かれねばなりません。まして、本学が“人間教育の最高学府”をめざす以上、教育の機会均等化を図るために、通信教育部をおくことは重要な課題であると考えてまいりました。
 今回、入学された皆さんは、年齢も幅広く、十代から七十歳を超える高齢の方々までいらっしゃるとうかがっております。また、ほぼ全員が仕事をもち、会社員、公務員、主婦等々、多忙ななかで、学問の道を志されたと聞いております。私はそこに、創価教育の原点ともいうべき学問への姿勢を見る思いがしてなりません」
 そして、牧口常三郎が提唱した「半日学校制度」に言及。それは、学習の能率を図ることによって、学校生活を半日とし、あとの半日を生産的な実業生活にあてるという制度である。牧口は、この制度の根本的な意義は、「学習を生活の準備とするのではなく、生活をしながら学習する、実際生活をなしつつ学習生活をなすこと、即ち学習生活をなしつつ実際生活もすることであって、(中略)一生を通じ、修養に努めしめる様に仕向ける意味である」(注)と述べている。
 生涯が学習である。生涯が勉強である。それが、人間らしく生きるということなのだ。


【聖教新聞】転載