『葬儀で悪侶の導師は堕地獄の因』  

師子王

2009年03月20日 11:39

【フェイク 第1002号 2009年(平成21年)3月12日(木)】

葬儀で悪侶の導師は堕地獄の因
 
友人葬を批判する「妙教」の愚論を砕く

多額の供養に加え、車で送迎したうえ「お車代」も 
 
 日顕宗の金儲けの手口は、本山の建物などを建て替えるという名目で莫大な供養を集める他は、葬式と塔婆である。
 
この葬式と塔婆供養の収入がバカにならない。
  
「年に二〜三回も葬式があって、塔婆供養をさせれば楽な生活できる」と言う坊主もいる。
 
だから、彼岸が近づくと「塔婆供養」を呼びかけて一本二千円の高額な塔婆を林立させるよう働きかけるのが常である。
 
 そのうえ「妙教」三月号では、坊主の金儲けにならない友人葬、同志葬について批判し、僧の導師が必要だと哀れな程、収入源の確保に躍起になっている。
 
 しかし、日顕宗の思惑とは裏腹に、堕落坊主に葬式を頼む人は法華講も含めて年々減少している。

それは社会全体が葬儀を柔軟に考える時代になってきているからである。
 
その新しい葬儀の最先端をいくのが約二十年前に始まった「友人葬」「同志葬」「学会葬」で、すっかり社会に定着した感がある。
 
これは葬儀に携わる学会儀典部の方々の誠実な振る舞いの賜物といえる。
 
 その結果、信仰していない参列者も「感動した」「厳粛で清々しい葬儀だった」等と共感し、今では「学会員ではないが、自分の時も友人葬で頼みたい」という声も多く聞かれるし、なかには「入会したい」と申し出る人も現れる程である。
  
葬儀には僧を呼んで引導を渡してもらうというのは、江戸時代の檀家制度の名残にすぎない。
 
そんな誤った旧習を打破し、仏法の本義に則った友人葬・同志葬を完全に定着させていくことも現代の宗教改革であり、識者からは多くの賛同の声が寄せられている。
 
 そもそも、葬儀そのものは、故人の成仏に何の関係もない。
 
むしろ、悪侶の導師は堕地獄の因になる。 
役僧の導師でもF講頭はムンクの「叫び」に似た悪相だったのが何よりの証拠だ。
 
 葬式仏教に成り下がった日顕宗の坊主にとって、商売はあがったりだろうが、大聖人の仏法では自分自身が唱題し、仏道修行に励むことが成仏の根本であり、その功徳を故人に回向することが追善供養になる。
 
学会の路線は不変
 
 かつて、学会でも坊主に葬式を依頼した際、多額の出費、威張り腐った坊主の態度は異常だった。
 
例えば、高級車で送迎したうえ多額の御供養の他に「お車代」として数万円ほど包むのが「常識」とされていた。
 
車代の二重取りだが、こんな悪習が蔓延していた。
 
 「妙教」では、平成三年に入って学会が「様々な化儀の改変を企てるようになり」と述べて「本宗僧侶の導師を得ずに」等と泣き言を並べている。
 
子供向け雑誌のような幼稚な「妙教」編集部は知らないだろうが、葬儀に坊主を呼ぶ必要が無い、というのは以前からの学会の路線である。
 
 昭和四十三年十一月度の本部幹部会で、当時の池田会長は「葬式に必ずしも御僧侶を呼ぶ必要はないのです」「御書を見ても、塔婆を何本立てなさいという指導はいずこにもない」等と指導。
 
これは今と同じである。
変わった点は「御僧侶」が「坊主」「悪侶」になったくらいで、指導の本質は一貫して不変である。
 
 腐敗坊主に清楚な友人葬を批判する資格はない。
 
 
【フェイク 第1002号 2009年(平成21年)3月12日(木)
】引用

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